思いやりと訓練を履き違えてる。

人は何か考え事をしている時
雑音がするのを本来嫌う。
勉強したり家でくつろいでいたり病院に調子が悪くて行った時も他人にインプットされてる訓練というワードの為に、ワザと騒音や嫌味、こういう時でも対応できるというつまり他人にとっては訓練という思いやりなのだ。
しかし、みんな気づいてない。
ワザと騒音や嫌味それを訓練と称した悪意である事を。
ワザとやるという事は悪意がある。
ということで、
思いやりと履き違えてる。

もし、それでわたしが他人を信用出来なくなったらどうするつもりなのだろうか?

全ての他人は自分に悪意を持っている。
とインプットされてもおかしくないのではないか。

だいたい周りの他人が臨機応変が皆無である。

そこの場所は(福祉会館)は何でも弱音を吐けて自分の自己肯定感を養う所。
家では隣のオバさんがいつも窓を開けて子供と品の無い笑い声、怒鳴り声、それを聴いても順応出来るための つまり訓練所。
病院ではハラスメント、嫌味、そういう社会への対応力の訓練所。

そんなとこだろう。

人間はロボットじゃない。
それに、思いやりと称した訓練にしてはあまりにも責任が無さ過ぎる。

家で今日はくつろぎたい時もあるし、
勉強したい時もある。
だいたい人がどこに行こうと人の気分で変わるし、興味が無くなれば行かなくなるのも当たり前だろう。

つまり、予測不可能なのである。


その場所その場所で役割が決まってるという
システムは仕事や学校で使う概念である。

人間の気分や欲求は心理や解析とは全く違う。

そう思えばそうだしそう思わなければそうじゃないのである。

言ってる意味分かりますか?


例えば恋愛なんか良い例だ。

恋愛にプログラムなんてあるか?

好きか嫌いかに理由なんてあるか?

それと同じだよ。


臨機応変が大事。


ほっといて欲しい時はほっといて欲しいし、
構って欲しい時は構って欲しい。
訓練を受けたい時は訓練を受けたい。


周りがわたしに気を張り過ぎる。
そこも周りが訓練して欲しいところである。
もっと柔軟な心で、余裕を持って。

それが出来ないようなら、わたしの周りから
さっさと去って欲しい。
迷惑するのはこっちなんだ。